11-8 ナウエン『静まりから生まれるもの』 [本]
停電の影響もあって出退勤の時間はゆるやかですが、15日(火)頃から、通常通りの仕事を再開しています。
被災地の人たちの現状と悲しみ苦しみ、身を挺して救助・支援にあたり、原発事故に対応している人たちを思うと、ふだんの生活に戻ることに罪悪感すら感じます。
でも、戻らねば。
今ここでできることは、限られているから……
何かあれば即応できるように、今は、自分の生活を立て直すとき。
そんなふうに言い聞かせています。
この本は、しばらく前に「ナウエンはいい」という話を聞いて、取り寄せておいたもの。
今まさに、読むべき本と思いました。
本当に、心底から、誰かのために何かをしたいと思ったら、自分を律することから始めること。
感情に流された行いは相手を傷つけるだけ。
そういったことが、シンプルな優しい言葉で語られています。
〔本書の翻訳は素晴らしいものですが、ここでは文意をくみ、翻案させていただいています。〕
私はクリスチャンですが、こういうとき、被災した人たちに何を言えるだろう、と先週以来、ずっと考えてきました。
よく、「神は耐えられないほどの試練は与えない」と言われます。
でも、私はひそかに、そんなことはない、時には、耐えがたいほどの苦しみを負わせられることもある、と思います。
「何もかも神のご計画である」ということも言われます。
でも、耐えがたい苦しみを負っている人に対し、これほど残酷な言葉はありません。
「天罰だ」などという言葉が、苦しみの渦中にいる人の心をどれだけ深く傷つけるか、某知事が証明してくれたとおりです。
私が洗礼を受けたのは身内の病気がきっかけです。
病気、家庭崩壊、経済的な困窮。
人が、心身ともに健やかに、幸福感をもって生きるための基盤が1つ1つ崩れていくなかで、10代20代を過ごしました。
病気になんとか対応するために、食べていくために、孤独に耐えるのに、必死でした。
でも、必死の一方、「もうくたびれたから、早くこの世の生を終わらせてほしい」と願う気持ちも強かった。
洗礼を受けたのは30代前半。
「なぜこのような運命を与えられたのか?」
「私たちがいったい何をしたというのか?」
答えのない問いですが、問わずにいられなかった、その「宛先」ができた、という気持ちでした。
絶望、怒り、悲しみ、虚しさ、孤独……そういった感情は、人にぶつけるわけにはいかない。
そんなことをしたら、状況はますます悪く、惨めになるばかりです。
ぶつける矛先が、神だった、というわけです。
私の場合、対象となる宛先は、仏様ではなく、八百万の神々でもなく、明確に、最初から、キリスト教の神でした。
身内に1人もクリスチャンはいないのに、不思議なことです。
長い長い真っ暗闇のトンネルを歩きながら、どこからか、かすかだけれど、確かに、ひとすじの光が見えてくるように思い、その方向になんとか進んでいこうと思いました。
私の場合は、それが神からの光だったのかもしれません。
いつ出口に出られるかわからないけれど、ともかくも歩き続けることができたのは、信仰があり、音楽が友となってくれたからだと思います。
いま、苦しみのさなかにある1人1人の心の中に、なんらかの希望の灯がともっていてくれることを願います。
出口のないトンネルは決してない。そう信じています。
*****
こんなブログを、所属教会の牧師さんから(ツイッターで!)教えてもらいました。
被災地から離れている人が感じるストレスへの対処法。
http://fujikake.jugem.jp/?eid=2795
日本キリスト教団東北教区の人たちの支援活動。
http://ameblo.jp/jishin-support-uccj/
「本をつくる」ことを仕事にしているので、被災地方の本屋さんの窮状はとても気になります。
以下は、出版の業界紙のウェブサイト。
http://www.shinbunka.co.jp/
募金について。
皆さんいろいろな形で募金はされていると思いますが、これは私がとりあえず応募したもの。
仕事のうえで以前から、医療・福祉の分野で継続的な活動をおこなっていることを知っていたので。
クレジット決済なので数分で手続きができ、何にどのくらい資金を使ったのか、活動報告もきちんとするとのことです。領収書の発行も可能。2011年4月1日以降は、公益財団法人へ移行するため、税制上の優遇措置もあるとのことです。
http://canpan.info/open/news/0000006465/news_detail.html
被災地の人たちの現状と悲しみ苦しみ、身を挺して救助・支援にあたり、原発事故に対応している人たちを思うと、ふだんの生活に戻ることに罪悪感すら感じます。
でも、戻らねば。
今ここでできることは、限られているから……
何かあれば即応できるように、今は、自分の生活を立て直すとき。
そんなふうに言い聞かせています。
この本は、しばらく前に「ナウエンはいい」という話を聞いて、取り寄せておいたもの。
今まさに、読むべき本と思いました。
本当に、心底から、誰かのために何かをしたいと思ったら、自分を律することから始めること。
感情に流された行いは相手を傷つけるだけ。
そういったことが、シンプルな優しい言葉で語られています。
わたしたちはつい、他人を救うこと、それが目に見える成果となって現れることにばかり注目してしまいます。逆に、本当のところやりたくないのは、痛みに共感したり、苦しみを共に苦しんだり、傷つき打ちのめされることを共に味わうことなのです。本当の愛を伴わない行いは、冷たい心で与える贈り物のように、それを受け取る人の尊厳を損ないます。
〔本書の翻訳は素晴らしいものですが、ここでは文意をくみ、翻案させていただいています。〕
私はクリスチャンですが、こういうとき、被災した人たちに何を言えるだろう、と先週以来、ずっと考えてきました。
よく、「神は耐えられないほどの試練は与えない」と言われます。
でも、私はひそかに、そんなことはない、時には、耐えがたいほどの苦しみを負わせられることもある、と思います。
「何もかも神のご計画である」ということも言われます。
でも、耐えがたい苦しみを負っている人に対し、これほど残酷な言葉はありません。
「天罰だ」などという言葉が、苦しみの渦中にいる人の心をどれだけ深く傷つけるか、某知事が証明してくれたとおりです。
私が洗礼を受けたのは身内の病気がきっかけです。
病気、家庭崩壊、経済的な困窮。
人が、心身ともに健やかに、幸福感をもって生きるための基盤が1つ1つ崩れていくなかで、10代20代を過ごしました。
病気になんとか対応するために、食べていくために、孤独に耐えるのに、必死でした。
でも、必死の一方、「もうくたびれたから、早くこの世の生を終わらせてほしい」と願う気持ちも強かった。
洗礼を受けたのは30代前半。
「なぜこのような運命を与えられたのか?」
「私たちがいったい何をしたというのか?」
答えのない問いですが、問わずにいられなかった、その「宛先」ができた、という気持ちでした。
絶望、怒り、悲しみ、虚しさ、孤独……そういった感情は、人にぶつけるわけにはいかない。
そんなことをしたら、状況はますます悪く、惨めになるばかりです。
ぶつける矛先が、神だった、というわけです。
私の場合、対象となる宛先は、仏様ではなく、八百万の神々でもなく、明確に、最初から、キリスト教の神でした。
身内に1人もクリスチャンはいないのに、不思議なことです。
長い長い真っ暗闇のトンネルを歩きながら、どこからか、かすかだけれど、確かに、ひとすじの光が見えてくるように思い、その方向になんとか進んでいこうと思いました。
私の場合は、それが神からの光だったのかもしれません。
いつ出口に出られるかわからないけれど、ともかくも歩き続けることができたのは、信仰があり、音楽が友となってくれたからだと思います。
いま、苦しみのさなかにある1人1人の心の中に、なんらかの希望の灯がともっていてくれることを願います。
出口のないトンネルは決してない。そう信じています。
*****
こんなブログを、所属教会の牧師さんから(ツイッターで!)教えてもらいました。
被災地から離れている人が感じるストレスへの対処法。
http://fujikake.jugem.jp/?eid=2795
日本キリスト教団東北教区の人たちの支援活動。
http://ameblo.jp/jishin-support-uccj/
「本をつくる」ことを仕事にしているので、被災地方の本屋さんの窮状はとても気になります。
以下は、出版の業界紙のウェブサイト。
http://www.shinbunka.co.jp/
募金について。
皆さんいろいろな形で募金はされていると思いますが、これは私がとりあえず応募したもの。
仕事のうえで以前から、医療・福祉の分野で継続的な活動をおこなっていることを知っていたので。
クレジット決済なので数分で手続きができ、何にどのくらい資金を使ったのか、活動報告もきちんとするとのことです。領収書の発行も可能。2011年4月1日以降は、公益財団法人へ移行するため、税制上の優遇措置もあるとのことです。
http://canpan.info/open/news/0000006465/news_detail.html
2011-03-19 16:18
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