10-15 沢井一恵・坂本龍一 [コンサート]
2010年4月13日、東京オペラシティ コンサートホールで、佐渡裕×沢井一恵×坂本龍一「箏とオーケストラの饗宴」を聴く。
(主催:東京オペラシティ文化財団)
満席の大ホール。
いつもと違う雰囲気(お客さんたちの顔ぶれ)に半ばとまどい、半ば「それはそうだろうな~」と納得。
なにしろ、坂本龍一さん(教授)の、新作初演があるのだから。
曲目は、
グバイドゥーリナ:樹影にて(アジアの箏とオーケストラのための)
プロコフィエフ:バレエ組曲《ロメオとジュリエット》から4曲
(ここで休憩)
坂本龍一:箏とオーケストラのための協奏曲〈4つの定常状態、あるいは人生〉
1曲目と3曲目のソリストが沢井一恵さん。
箏というものをちゃんと聴いたのは、多分、これで数回目。
だから、箏の演奏の難しさとか、本当の魅力とか、沢井さんという方がどんなすごいひとなのか……
ほとんど知らないままこの会場にいて、なんだか申し訳ないような気分である。
でも、まず1曲目、グバイドゥーリナの作品を聴きながら、生半可な奏者ではこの作品には立ち向かえないことはわかったし、箏の楽器としての可能性・魅力も、十分に聴かせてもらえたと思う。
なにしろこの曲では3種類の箏を使い分け、うち1台はスチール弦なのだそうだ。
一瞬も気の抜けないこんな激しい曲で、指先などぼろぼろなのでは……と余計な心配をしてしまう。
この公演はそもそも、兵庫芸術文化センターで3回の公演をこなしたあとの最終日。
リハーサルはそれ以前に3日もやったそうなので、延べ何日間を緊張状態で過ごしたのだろう?
それに、あの、中腰・前かがみの姿勢。
それを保持したまま、30分の曲をひと晩に2曲なのだから、心身ともに超人的なエネルギーだと思う。
休憩後、佐渡さんと「教授」がマイクを持って登場。
かつて、武満徹さんが邦楽器を使った新曲を書いたとき、「教授」が抗議のビラまきをした話など……
照れくさげな教授を相手に、佐渡さんが上手に(さすが慣れている!)話を引き出している。
抗議のビラまき、気持ちはなんとなくわかります。
あの時代から「今」へ、どれだけ世界が、日本が、変わったことでしょう……
さて、教授の新作は、4つの季節(冬から始まって秋で終わる)の(心象)風景を、箏とオケで繊細に描いたもの。
とても面白かったのは、1曲目のグバイドゥーリナと、箏の扱いが対照的だったことだ。
グバイドゥーリナはこの楽器を容赦なく暴力的な扱いをして、響きや演奏技術の可能性にぎりぎりまで挑んでいた。
そして、旋律や響きというより、「能」に通じるような日本的な「音と音のあいだの間(ま)」、「裂帛(れっぱく)の気合い」といったものを、強調していたと思う。
対するに教授の音楽では、私たちにはなじみの「おこと」の響きやメロディが、季節の移り変わりを背景に、ふわりと浮いている感じ。
これもまた、グバイドゥーリナとは対極的な、日本的なるもの。
国際人の教授の、意外な日本人の心情に触れた気分……
いろいろ考えさせられる、面白いコンサートだった。
実は、客席でプログラムを見て、最初に驚いたのは……
坂本龍一さんに新作を委嘱したのが沢井一恵さん個人であること。
これはすごいことだと思った。
坂本龍一さんに箏の音楽を創ってほしい、という沢井さんの着想。
そこからすべてが始まったのだということが、この1行でわかる。
あんなに華奢な可愛らしいひとが、「世界の教授」の心を動かし、佐渡裕さんを動かし、兵庫芸術文化センターとオペラシティでの4日間の公演を実現させた。
本番に至るまでの、物心両面の負担はどれだけ大きかったことだろう。
佐渡裕さんが教授とのトークのなかで、
「クラシックの現代音楽と、邦楽器と、ポピュラー音楽をつなぐ架け橋になれるのは、坂本さんだけですよ」
と言っていた。
それは佐渡さん自身の願いを込めた言葉でもあったのではと思う。
沢井さんたったひとりの思いから始まったことに、関わった皆がそれぞれの願いと夢をのせて、こんな大きなプロジェクトになった。
なんだかすごいな、と思う。
(主催:東京オペラシティ文化財団)
満席の大ホール。
いつもと違う雰囲気(お客さんたちの顔ぶれ)に半ばとまどい、半ば「それはそうだろうな~」と納得。
なにしろ、坂本龍一さん(教授)の、新作初演があるのだから。
曲目は、
グバイドゥーリナ:樹影にて(アジアの箏とオーケストラのための)
プロコフィエフ:バレエ組曲《ロメオとジュリエット》から4曲
(ここで休憩)
坂本龍一:箏とオーケストラのための協奏曲〈4つの定常状態、あるいは人生〉
1曲目と3曲目のソリストが沢井一恵さん。
箏というものをちゃんと聴いたのは、多分、これで数回目。
だから、箏の演奏の難しさとか、本当の魅力とか、沢井さんという方がどんなすごいひとなのか……
ほとんど知らないままこの会場にいて、なんだか申し訳ないような気分である。
でも、まず1曲目、グバイドゥーリナの作品を聴きながら、生半可な奏者ではこの作品には立ち向かえないことはわかったし、箏の楽器としての可能性・魅力も、十分に聴かせてもらえたと思う。
なにしろこの曲では3種類の箏を使い分け、うち1台はスチール弦なのだそうだ。
一瞬も気の抜けないこんな激しい曲で、指先などぼろぼろなのでは……と余計な心配をしてしまう。
この公演はそもそも、兵庫芸術文化センターで3回の公演をこなしたあとの最終日。
リハーサルはそれ以前に3日もやったそうなので、延べ何日間を緊張状態で過ごしたのだろう?
それに、あの、中腰・前かがみの姿勢。
それを保持したまま、30分の曲をひと晩に2曲なのだから、心身ともに超人的なエネルギーだと思う。
休憩後、佐渡さんと「教授」がマイクを持って登場。
かつて、武満徹さんが邦楽器を使った新曲を書いたとき、「教授」が抗議のビラまきをした話など……
照れくさげな教授を相手に、佐渡さんが上手に(さすが慣れている!)話を引き出している。
抗議のビラまき、気持ちはなんとなくわかります。
あの時代から「今」へ、どれだけ世界が、日本が、変わったことでしょう……
さて、教授の新作は、4つの季節(冬から始まって秋で終わる)の(心象)風景を、箏とオケで繊細に描いたもの。
とても面白かったのは、1曲目のグバイドゥーリナと、箏の扱いが対照的だったことだ。
グバイドゥーリナはこの楽器を容赦なく暴力的な扱いをして、響きや演奏技術の可能性にぎりぎりまで挑んでいた。
そして、旋律や響きというより、「能」に通じるような日本的な「音と音のあいだの間(ま)」、「裂帛(れっぱく)の気合い」といったものを、強調していたと思う。
対するに教授の音楽では、私たちにはなじみの「おこと」の響きやメロディが、季節の移り変わりを背景に、ふわりと浮いている感じ。
これもまた、グバイドゥーリナとは対極的な、日本的なるもの。
国際人の教授の、意外な日本人の心情に触れた気分……
いろいろ考えさせられる、面白いコンサートだった。
実は、客席でプログラムを見て、最初に驚いたのは……
坂本龍一さんに新作を委嘱したのが沢井一恵さん個人であること。
これはすごいことだと思った。
坂本龍一さんに箏の音楽を創ってほしい、という沢井さんの着想。
そこからすべてが始まったのだということが、この1行でわかる。
あんなに華奢な可愛らしいひとが、「世界の教授」の心を動かし、佐渡裕さんを動かし、兵庫芸術文化センターとオペラシティでの4日間の公演を実現させた。
本番に至るまでの、物心両面の負担はどれだけ大きかったことだろう。
佐渡裕さんが教授とのトークのなかで、
「クラシックの現代音楽と、邦楽器と、ポピュラー音楽をつなぐ架け橋になれるのは、坂本さんだけですよ」
と言っていた。
それは佐渡さん自身の願いを込めた言葉でもあったのではと思う。
沢井さんたったひとりの思いから始まったことに、関わった皆がそれぞれの願いと夢をのせて、こんな大きなプロジェクトになった。
なんだかすごいな、と思う。
2010-04-14 22:05
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